疑うということ
この言い方が適当かどうかはわからないけど
純粋無垢、赤子のような
ってのは言ってしまえば誰かを頼らないと生きれない、誰かに助けてもらわないとどうにもならないから相手の事を120%信用信頼するのかなと
時に悲しい事件が起きる
親が育児放棄をして1歳や2歳の子供を置いて長らく遊びに行ってしまう
運良く生きてて親が帰ってくる
そんな状態でも子供はお父さんお母さんと泣いて駆け寄る
最悪はそのまま亡くなってしまう
自立出来てないから誰かを頼らないと生きれないから全幅の信頼をよせる
小さい頃、畑仕事をしていて虫を見つけたら大人達は無残に殺してた
それに対して虫が可哀想だと思ったし、畑仕事をしている祖父母には殺さないでとお願いした。
でも、殺さないとダメなんだってキチンと説明されて祖父母は殺してた。
理由は根っこを食べてしまって野菜が育たないから
それは人間側の都合であってその虫も生きるのに必死だ
その根っこは虫にとっての食料
同じ食料なのだ
大人になるにつれてその虫を殺す事が当たり前になってくる
何とも思わなくなってくる
どんだけ大人になってもその虫を殺す事が可哀想って思える心が純粋な心やと思うし、いくつになってもそんな命の犠牲の上で人間の生活は成り立ってる事を忘れてはいけないし、忘れないでほしい
これは必要な純粋さだと思う
【疑う】
って文字や響きだけだと何か悪い意味に捉えかねない
だけど何かに対して疑問に思う事はそれだけ頭を使って考えてる証拠
疑問に思う事は少しずつ自立していってる証拠でもある
どんなに信用信頼している相手に対してもキチンと自分の頭で考える事はとても大事
それによって自分の身を守れる事にもなる
時として疑う事を知らないってのは
単なる受け身人間
何も考えていない人間
誰か何とかしてくれるって自立してない人間
にもなりかねない
そしてそんな人は自分にとって都合の悪い状況や展開になったら必ず人のせいにする
ほんの少し前まで1ミクロンも疑ってなかった人のせいにする
それはある種の死と同じではないだろうか
赤ちゃんがあんなに可愛いのは攻撃されない為、誰かに助けてもらう為
そして自分の息子・娘はかわいい
どんなに大きくなってもかわいいと思う
それでも自分の考えを持ち、疑問を持ち、反抗してくる事は一種の喜びでもある
それが明らかに間違った方向に行きそうな時に軌道修正してあげるのが親の仕事かなと思う
それでも子供には子供の才能がある
可能な限りその才能を潰さないように、その考えや意見を尊重しようとは心掛けてる
少し脱線したが疑う事、疑問に思う事は決して悪い事ではない
どんなに信用してる相手、信頼してる相手、崇拝してる相手だとしても言ってる事や行動に対し観察し自分の考えを混ぜ込む事は大切だ
キチンと自分の頭で考え、整理して自分に落とす
その人の言ってる事を100%鵜呑みにするのは危険だと個人的には思う
そして残念ながらそんな人が多いのも現実なのだ
自立しようぜ!
自分の頭で考えようぜ!